ソーシャルメディア時代の心構えはいかにあるべきか

※この記事は5年以上前に書かれたため、情報が古い可能性があります

エントリ掲載後のやり取り見ているとわざわざ書くこともないんじゃないかなと思いつつ、中途半端にからんでしまったからには責任とってエントリー。

というわけで今回の話は下記2つのエントリー。田口さんによる上のエントリーに対してけんすうが反論気味にアップしたエントリーをふまえてのお話なので、この先を読む前にまずは2つのエントリーを順番にお読みくださいませ。

ソーシャルメディアでつぶやく前に注意したいこと・・・ | IDEA*IDEA
http://www.ideaxidea.com/archives/2011/08/social_media_tips.html

ほとんどがオープンになるソーシャルメディアの時代での心構え – ロケスタ社長日記 @kensuu
http://blog.livedoor.jp/kensuu/archives/52446192.html

この2つのエントリー、どちらかといえば後者を読んで思った自分の感想というか論点は2つ。1つ目はこのやり取りは不幸なすれ違いであって、思ってることはどちらも同じであってスタンスが違うだけだよなあということ。

よく読めばわかるんだけど、2つのエントリーとも「ソーシャルメディア時代はいろんなことが否が応でもオープンになってしまうことがある」というのは暗に認めている。前者である田口さんはもう明らかにそういうスタンスなわけですが、けんすうもTwitter見る限り「そういう時代なのは仕方ないからあきらめている」というだけであって、「こんな時代なんだからなんでもオープン!」と言っているわけではないわけですよね。

[blackbirdpie url=”http://twitter.com/#!/kensuu/status/103349452433141760″]

そうしたオープン時代に対して田口さんは「でも相手に対して配慮があるといいな」という提案をしているだけで、「配慮がないやつはだめだ!」と一刀両断しているわけではない。少なくともエントリーには「個人的に気をつけている(&他の人にも気をつけて欲しい)」と言うお願いスタンスであり、「どんなトラブルになるか最近は予測もつかないので気をつけましょうね」という危惧を示しているだけだと思うのね。

正直これは言葉の捉え方レベルの話じゃないかなと思っていて、「気をつけてほしい」という話を「リアルでの出来事を共有しないでくれ」と捉えたが故におきた悲しいすれ違いであって、お互いが思うところにさほど違いはないのでは、というのが2つのエントリーを読んで思ったところであります。

個人的にもこういうソーシャルの時代なので仕方ない部分もあって、そこは自衛手段も大事なところなんだけど、自衛するのが当然! みたいな社会もちょっと悲しいな。はてなブックマークで「なでしこの熊谷の合コン話もそれくらい覚悟しろってこと?」っていう突っ込みがあって大変共感しちゃったんだけど、自分としても同じような比喩として、修学旅行の夜にこっそり共有した好きな人トークがソーシャル時代だからって全部オープンにされちゃかなわんと思ってたので、なんでもオープンかクローズかの二者択一ではなく、相手のことを思いやってのバランスを取るのが大事かなと思う次第です。

でもそういう論旨はTwitterでけんすうも言っているので、けんすう自体も全部オープンにせよ論者ではないと思うのね。だからこそ本質的には同じことを言っているのに言葉のやり取りだけですれ違っている感がしてちょっともったいないというか寂しい気がするのでした。

そして2つ目の論点というかむしろこっちがこのエントリの本題だと思ってるんですが、はたしてソーシャル時代だからオープン、っていうことがそもそも新常識なのだろうかというお話。

というのもこれはもうリテラシの問題だなと思っていて、例えばmixiもユーザーが少数のうちはよかったけど、大きくなってくると踏み逃げ禁止とか(これ都市伝説だと思ってたらほんとにいてびっくりした)、プロフィールにはとっくに表示されている実名がただ一覧されただけで「情報漏洩だ!」と怒る人が多数いたりとかするのを見ると、新しい世代のすべてがすべてオープンじゃないのではないかと常々思うわけなのですよ。

古きを例に取っても、このオープンインターネット時代に「リンク禁止」なんて文化は技術的にはおかしいのだけれど、それでもそういう人たちはまだまだたくさんいる。それが古い世代と割り切ったとしても、今度は逆にオープンということをまったく意識せずに飲酒運転だのカンニングだのを平気でつぶやく人たちが後を絶たないことを考えると、果たして常識を世代別に考えることが正しいのかなとは疑問におもってしまうのです。

思うにすべてがオープンだと割り切れていてそういう世界を受け止められている人というのは、ITリテラシがある程度高い人たちなのではないかな。もちろん現実にそういう側面があって、インターネットに発言したことはなんでも見られているんだよ、という危険性を認識することはとても大事なんだけど、「すべてもうオープンでよくね?」とすべての新しい世代が思っているわけではないかなと。「その常識は古い」と言っている常識は、さらに別の人からすると「そんなのも常識じゃないよ」と返ってくる可能性もあって、新しい世代はすべてオープンになるというのがはたして新世代の常識になるかというと、現状のネットを見る限りでもそれが通用するのはリテラシがある程度高い層だけなんじゃないかなと思いました。

じゃあ何が常識かなんて自分には結論がないけれど、だからこそ常識が何かなんて答えはないわけで、人によって常識なんて違うもの。日本人にとっては友好の挨拶がギリシャ人の逆鱗に触れるなんてこともあるので、このあたりはあくまでコミュニケーションであって共通見解の常識で片付けるものではないんじゃないかなあ。

インターネットが急速に発達しすぎたため、マナーやモラルなんてものがとても追いついてなくて常識なんて尺度ではかるのはとても難しくて、けんすうも認める通り「もう何でもオープンにされるのであきらめてしまう」気持ちもわかるんだけども、だからといって相手のことを思いやらなくていいというってことではないということと、すべてがオープンになることが果たして新常識なのかな? というところは疑問が残るかな、というのが本エントリの結論であります。

まあそういう点では前にもエントリーした「だろう運転」より「かもしれない運転」とほとんど内容変わってないんですけどね。まあ成長のないブログということで……。

オフ会と車の運転 – カイ士伝
http://blogging.from.tv/kai4den/archives/000698.html

そしてこのエントリーのブクマ10以内にはきっとid:kanoseがやってくるであろうと予想しつつこのあたりで勢いエントリーを終えたいと思います。


ソーシャルメディア時代の心構えはいかにあるべきか” への4件のフィードバック

  1. 15年くらい前に同じ問題で揉めてましたね。実名の世界だったインターネットで。
    「インターネット時代の心構えはいかにあるべきか」って感じだったことになるのかな。

    ま、それに対する反応の一つが、ネットの匿名化だったという面もあると思うので、今フェーズでも、バックラッシュが何かあるだろうなと思うことしきりです。

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