インターネット老人会に寄せてネット半生を振り返る


この記事は、「インターネット老人会 Advent Calendar 2023」14日目の記事です。

インターネット老人会 Advent Calendar 2023 – Adventar
https://adventar.org/calendars/8729

インターネット老人会について語る前に、そもそもインターネット老人会の対象とは誰なのか。以下のサイトを見る限り、だいたい2000年前後、2000年よりちょっと前くらいが老人会の対象っぽい。

インターネット老人会は、昔のインターネットを懐かしむ人たちである。2020年代前半現在では、おもに常時接続以前〜移行期の、1990年代後半〜2000年代前半にネットを楽しんでいた層が中心的な年代。

インターネット老人会 (いんたーねっとろうじんかい)とは【ピクシブ百科事典】
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E8%80%81%E4%BA%BA%E4%BC%9A

2015年6月に愛知県刈谷市で「2000年ごろのインターネットを懐かしむ会」という催しがあり、参加したツイッターユーザーが書き込みに用いたタグが方方でも使われるようになったのが始まりとされる。

インターネット老人会とは (インターネットロウジンカイとは) [単語記事] – ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E8%80%81%E4%BA%BA%E4%BC%9A

そもそもインターネットは日本でいつ頃から普及したのかという点では、以下のサイトによればWindows 95の登場で爆発的に普及した、とのこと。

日本におけるインターネットの歴史|おかげさまで創立25周年|デジタルアーツ株式会社
https://www.daj.jp/history/internet/

というわけでインターネット普及期である1995年前後からインターネットを使い始めた自分はばっちり対象かな、ということと、お仕事からインターネットの歴史とその変遷については人よりもいろいろな体験しているなとも思うので、年末のこの機会に、自分のこれまでも振り返りつつインターネット昔話をつれづれ語ってみたいと思います。

なお、思い出だけで語っていくため事実誤認とかもたっぷりありそうなので、そのあたりはどしどしご指摘ください。ただ、インターネット普及期の頃はソースになる情報もあまり残ってないので、とりあえず記憶の中にある情報を書き出していくだけでもそれなりに有用にはなるかなと。

PHSが鳴らなくて

自分がはじめてインターネットに触れたのは、大学から割り当てられるメールアドレスでした。当時は学生全員への配布ではなく、希望者は窓口に行くと「学部+入学年度+学籍番号+チェックナンバー」というメールアドレスがもらえる仕組みで、翌年からは入学生全員に配布された記憶。今でもこの時のメールアドレスそらで言えるなー。

当時はまだ携帯電話どころかPHS持っているのも珍しいくらいの世代。大学入学直前に高校の同級生と遊んだ時にPHSを見せびらかされて「電話なんて持ち歩いて便利なのかな?」と疑問に思ったくらいだから、今とは隔世の感ありですね。

その後大学で入ったテニスサークルでも、1年生でPHSを持っているのは数人程度、それが次の年に入ってくる新1年が全員PHSを所有、さらに次の年は全員が携帯電話を持っていて、たった1年であっという間にモバイル環境が変わっていく年でした。

自分も大学1年の頃に自分のPHSを初めて入手。今も型番覚えている京セラの「PS-601」というフリップタイプで、当時は新宿の駅前にあったカメラのさくらやで数千円くらいで購入しました。「青春PHS」とかいう謎のキャッチフレーズで売られていて、青春かどうかはわからないけどこの機種持っている人が圧倒的に多かった。

この頃はPHSと携帯電話がまったく別システムで、PHSと携帯電話の間で電話をかけることができない時代。そしてよりクローズドだったのが携帯電話・PHSのメッセージシステム。PHSではDDIポケットがPS-702という機種から「Pメール」を開始。カタカナ20文字くらいしか送れないけど電話じゃなくメッセージを送れる手軽さが大人気で、自分も前モデルのPS-701を持ってたのに速攻PS-702に機種変更しました。ただ当時はパケット通信なんて仕組みはなく、PHSの通話で実現していた機能なので、Pメールの開始当初は通話料の最初の10円+さらに10円、1通で合計20円も出して送ってたので通話料が恐ろしいことになってましたが、その後すぐに10円に値下げされました。それでも十分高いけど。

その後DDIポケットは、相手に表示される電話帳の名前を変えられる「テレネーム」という機能を提供、これが「着信履歴残すだけで無料でメッセージを送れる」という使われ方が大流行しために無くなってしまいましたが、我々の周りでは「キムラタクヤ」という名前で電話かけてびびらせるとか、サークルの女の子の名前でかけるとかしょうもないいたずらばっかりに使ってました。

そんなPメールも文字数が増えたり日本語対応したりというPメールDXというサービスに強化していくものの、携帯電話のユーザーが増えてくると電話はかけられてもメッセージは送れず、結果としてメッセージのやりとりをしたいがためにPHSをやめて携帯電話にする人がどんどん増えていく。この頃の携帯電話への移行はほぼメッセージを送りたいからだった気がするな。しかも携帯電話もキャリアごとで送れるメッセージが異なるので人間関係にも割と影響を与えていた。端的に言うと好きな子と同じキャリアにしないとメッセージ送れない、みたいな。

そんなこんなで自分も大学3年にはPHSからNTTドコモの携帯電話に乗り換えたものの、音は悪いし送れるメッセージ数も少ないしそれでいて料金高くなるしで、やっぱりPHSのほうがいいよなあとずっと思っていた。結局その後PHSも再度契約して携帯電話との2台持ちになるんだけどそれはまた少し先のお話。

サインは「アッオー!」

話を戻して、大学に入った当時はインターネットどうこう以前にパソコンも使ったことがなかったし、メールアドレスも全員に配布されるわけでもないので使うためのモチベーションがあるわけではないのだけど、サークルの先輩にHotmailの使い方を教えてもらい、おぼつかない指でポチポチとメールを打つと目の前の先輩からすぐに返事来るのが楽しくて、パソコンに興味が出始めました。

とはいえまともにパソコンを使ったことがないのでキーボードもうまく使えない自分を育ててくれたのが、大学のパソコンに入っていたタイピングソフト。オリジナルのソフトっぽいんだけど教え方がとてもうまく、最初はホームポジションのFJから始まりASDやJKLなど少しずつ指の動かし方を教えてくれ、しかも正解率が高いと思いっきり誉めて伸ばしてくれるのが楽しかった。

その結果、ただただタイピングソフトやるためだけに大学のパソコン教室で一晩過ごすくらいハマり、パソコンの授業では数十分やればいいだけのタイピングの課題を数十時間くらいで提出して余裕の優をゲット。おかげで今も人並み以上のスピードでタイピングできて仕事の効率化に役立っているので、あのときタイピングをみにつけられてほんとによかったなと思う。

時は経ち、大学3年でサークルの幹事になった時に、理系の後輩と「サークルのホームページとか欲しいよなー」と話していたら「そんなの簡単ですよ」と後輩がサクッとつくってくれて、それが面白くて自分もホームページに手をだすことに。それがGeocitiesとの出会いだった。

後輩に教えてもらいながらなんとか自分のホームページを開設し、更新するのが楽しくてこれまたパソコンルームに入り浸る。Geocities自体はHTMLがわからなくても更新はできるんだけど、当時はGeocitiesとほぼセットで開設していたteacupのBBSが、HTMLで文字の色を変えたり大きくしたりできる機能があって、他の人が赤い文字や大きい文字使っているのを見て「それどうやるんだろう?」と見よう見まねで少しずつHTMLを覚えはじめました。この頃の経験のおかげで、知識で学ぶよりまず先に体験してみて、その上で何かやりたいことが見つかったら自分で覚えていくほうがいいよな、という考えに至りました。

Geocitiesにはドラマや映画や時事問題について青臭く語るコラムとかも書いていて、今読んだらもう赤面ものなんだけどGeocitiesがサービス終了するタイミングでHTMLを全部保存して、いまもDropboxの奥底に眠っているはず。

Geocities、teacupに加えて当時のインターネットコミュニケーションに使っていたのが「アッオー!」の通知音でおなじみICQ。大学3年くらいには兄が自分でPCを買っていて、兄が使っていないときには使わせてもらったりしていたので、ICQもパソコンに入れてやりとりしていた。ちなみにICQって2023年現在でもまだサービス提供しているのがすごい。

大学4年になって就職活動する頃にはいまほどではないもののパソコンでのエントリーも始まっており、大学のメールアドレスを使って応募していたけど、メールチェックのためだけに毎回大学のパソコンルームに行くのは大変。自宅のパソコンは大学のメールアドレスを設定するのが難しかったのと、たまたまエロサイトの広告を踏んで高額請求が来て兄に詰められるというテンプレ的な行動してしまったため、自宅のパソコンもあまりうまく使えなかった。

とはいえ自分のパソコン買うほどのお金はない、ということで買ったのがシャープの「アイゲッティ」というPDAで、合わせて通信回線としてPHSを契約。当時のPHSは、携帯電話が9600bpsでの通信かつ通信料金も高かったのに対して、PHSは32kbpsかつ低料金でデータ通信できるので、もう1台持っても十分に元が取れた。そしてこの頃にはPHSと携帯電話もお互いにつながるようになっており、DDIポケットのPメールDXはeメールの仕様を実装していてパソコンともメールできるようになっていたので「PHSのほうが携帯電話よりいいよな」というPHS愛が再燃しはじめたのもこの頃でした。

就職活動中は、面接で仲良くなった人とホームページを教えてBBSにコメントしあったり、コメントの返事が来るのをまってリロードしまくってPHSの料金が跳ね上がったりと、いまであればSNSで当たり前にやってたようなことをホームページを通じて楽しんでました。特に任天堂を受けに行ったときに知り合ったヘビーな任天堂好きの友達は、64DDと巨人のドシンをバイト先に持ち込んでもらって一緒に遊んだり、めちゃくちゃヘビーな任天堂トークでもりあがったなー。

その後社会人になってからは連絡とかも途絶えちゃったけど、あの頃今みたいなSNSがあったらもっとつながっていられたのかな。当時は学生から社会人になるタイミングで人間関係も一変して、いろんなものがリセットされてしまいました。

IP Messengers’Rhyme

当時の就職活動は今でも氷河期時代と語られるほど厳しい時代の中、圧迫面接を折れた心でハイハイと流していたら最後の最後で電機メーカーの内容をいただき、大学の単位も最後まで必修を残すというギリギリ綱渡りだったけどなんとか現役で卒業して社会人生活がスタート。

3ヶ月もの長期研修を終えて配属された部署は、電機メーカーというよりは建築現場に近いような仕事で、思い描いていた電機メーカーのイメージとはまるで違うものだった。ただ、逆にそれが今となってはありがたいなというか、日本ならでは、大企業ならではというビジネススタイルを学べたのは今も役に立っているなと思う。とても表では言えないような裏話も含めて。

当時の直属の上司が割と新しい物好きなタイプで、ある日パソコンに白一面、真ん中に検索ウィンドウがぽつんとあるWebサイトを表示しており、「それって何ですか?」と聞いて教えてもらったのがGoogleとの出会いだった。あの頃はとにかく高速で検索すると瞬時に表示され、しかも検索の精度がおそろしいほど高くて感動したGoogleが、今はスパムによって検索結果がボロボロになっているんだから時代は変わるものですね。とはいえその後Googleが展開するGmailやGoogleカレンダー、そしてAndroidがもはや自分の生活に無くてはならないものになってもいるので、改めてGoogleに感謝ですが。

会社では同期や先輩たちとのコミュニケーションに使っていたのはIPメッセンジャー。IPメッセンジャーはその名の通りIPをIDとしてやりとりするソフトで、当時働いていたオフィスは席ごとにプライベートIPアドレスが割り当てられていたのと、ユーザー登録の必要なくインストールすればすぐ使えたので普及していた。ただ、IPメッセンジャーはデフォルトだと届いた瞬間に画面に表示する仕様になっているので、同期に会社の愚痴をこぼしたらたまたま同期の画面を上司が覗いていて……なんて事件もちょいちょい起きており、同期や先輩には「この設定しとかないと中身見えちゃいますよ!」と布教活動して回ったなあ。

当時は自宅から会社に通えるギリギリの距離ではあったものの、1人暮らしをしてみたかったのでいろいろ理由をこしらえて無事会社の寮にお引っ越し。その頃にはDDIポケットが64kbpsのサービスを提供しており、パソコン用のPCカードを買ってインターネット生活を楽しんでいたのが、寮に入って数ヶ月するとADSLが導入されることに。当時の同期に聞いた話によると、SEの新人向けに偉い人が話すというイベントで、新人の1人が「うちの会社はインターネットを重要視するといっておきながら寮にADSLも引かれていない」と問題提起、その姿勢やよしと偉い人に認められて全寮にADSLが導入されることになった、と聞いたけど今となってはそれが事実だったのか都市伝説だったのかはわからない。

そんなこんなで送っていた新社会人生活も、もともとガジェットや電機製品が好きだったのにまったく縁遠い仕事をしていることは常々心の中に重くのしかかっており、入社2年目にして転職を決意。たまたま自分のオフィスと徒歩圏内だからお試しにいいかもな、と勢いで応募してみたのがインプレスとの出会いでした。

完全に転職の練習という軽い気持ちだったのに対してとても強く誘ってもらえたのと、当時はまだ転職経験に乏しく、額面と手取りの違いを意識しないまま「大して給料も変わらなそうだな」という浅はかな判断で転職を決意。手取りでの金額が大幅に下がるだけでなく年俸制なのでボーナスなんてものもないので年収は大幅ダウンしてしまうことに気がついたのは若気の至りというやつですね。

入社してから採用してもらった理由を聞いたところ、「大手企業で研修受けてるからマナーとか一通り大丈夫だろう」という点に加えて、PHSが大好きと熱く語りつつ「でもまあPHSなんてマイナーですから」と割り切ってたところが評価ポイントだったらしい。なお、この面接の時に持っていたPHSは九州松下の折りたたみタイプ「KX-HV200」のブラックです。

恋のブロードバンド

元々は携帯電話やPSHが好きでケータイWatchを志望してたんだけど、その志望は通らず、たまたま枠があったBroadband Watchというブロードバンドをテーマにした媒体に配属。ADSLは寮で使っていたけど詳しいことを知っているわけではなく、ルータやら無線LANの知識もさっぱりだったけど、ひたすらブロードバンドの話題を扱うことでいつのまにかルータのIPアドレス見てメーカー当てるくらいには無駄に知識がつきました。ブロードバンドで扱うネットワークや無線LANは目に見えない要素が多く、そのあたりの基礎をこの頃に身につけられたのは今も役立っています。2.4GHzと5GHzの違いとかも未だに大事な知識だしなー。

当時は新聞各紙をチェックして、各媒体に関係ありそうなところをコピーして配るというのが新人の仕事だったんだけど、これが当時としては結構な衝撃で、自分がリリースから記事にしたような内容が、新聞では1日どころか2、3日経って記事になってたりする。新聞に載ってる情報は速報性があると思っていたけど、インターネットの時代ではWebニュースのほうが速報性では勝ってるんだな、というのは驚きとともにちょっと誇らしい気持ちにもなりました。

当時ブロードバンドのキラーコンテンツと言えばADSLの速度向上で、ADSLの通信速度が上がるたびにその速度を計測した記事が大人気だったものの、その後ADSLの高速化が一段落して速度競争にあまり注目が集まらなくなってしまい、次のキラーコンテンツを探すことに。本来一番期待していたのはインターネットと通信できるハードウェア、今で言うIoT、当時ではネット家電。けれどその頃はまだまだネット家電も意欲的な製品はあれど今とは比べものにならないようなレベルで、一般の人が使うというよりまだまだマニアでニッチな層向けの製品ばかりで、PVを集めるキラーコンテンツとしてはまだまだ厳しい段階。

とはいえさまざまな家電がネットワーク対応に挑戦して面白い試みをしているのを見守れたのはとてもいい経験でした。シャープのガリレオみたいなHDDレコーダーはいまや当たり前の存在になっているし、オーディオ機器に直接音楽を配信しちゃうエニーミュージックとかも面白かったし、ソニーのmyloみたいなスマホ先駆けのPDAもガジェット好きの心をくすぐられる逸品でした。あの頃のネット家電だけを語るネット家電老人会とかもやりたいなー。

ゲーム機もモデムからブロードバンドへの対応が少しずつ進み始めていて、ファイナルファンタジーシリーズ初のオンラインタイトルであるファイナルファンタジーXIが発売されたのもこの頃。しかしこの頃もひたすらに任天堂ファンだった自分が手を出した初のオンラインゲームはPSOこと「ファンタシースターオンライン」。PSOはドリームキャストではすでにオンラインサービスを提供していたんだけど、ドリームキャスト発売当時はとても自分のお小遣いで買う余裕もなく、ゲームキューブがブロードバンドアダプタと合わせてリリースしたときに飛びついて購入しました。

元々メガドライブのファンタシースターIIIが好きだったというのがプレイした理由ではあるけれど、オンラインゲームでの楽しさにどっぷりとハマり、夜になると毎日のようにログインして寝不足になる毎日。VRコミュニティにいまいち食指が動かないのは、オンラインゲーム的なコミュニケーションの楽しさはあの頃ハマりすぎたので、VRというUIの違いはあれど、ネットでよなよなコミュニケーションして遊ぶという本質的な部分は共通かなというのと、ハマると時間をついつい費やしてしまう怖さを知っているからかもしれない。

当時よく一緒に遊んでくれていたフレンドはゲームでしかつながっていない、会ったこともない人だったんだけどとても振る舞いが素晴らしく、自分以外の人には惜しげも無くアイテムを分けてくれるし、アイテムくれくれ君で欲しいものがもらえないと捨て台詞残して消えていくようなリアル中二みたいなプレーヤーに遭遇しても優しく分け隔て無く対応していて、ネットゲームでの作法はあの人に学んだなー。ファンタシースターオンラインをプレイしなくなってもうつながりはなくなっちゃったけど今も元気にしているだろうか。

S・N・S

話をお仕事に戻して、ADSLの速度計測記事に変わる記事ネタを探す中でネットにつながるものはゲーム機でもなんでも片っ端から手を出しつつ、常時接続の時代だからこその新しいコンテンツの可能性、と期待して追いかけたのがブログでした。

当時は確かPHSが携帯電話に遅れて写真撮影に対応し、DDIポケットとして初のカメラ付きPHSである H-SA3001Vを購入したタイミングで、写真を使ってどこかにアップロードしたいなーと思っていたときに出会ったのがヤプース!というサービス。その頃はまだブログなんて名前ではなかったけど、写真撮って日記付けるのに面白そう、とアカウント登録したものの、PHSはまだマイナーだったのかうまく動作せず、結局諦めてMyProfileやSeesaaを使ったりDoblogを使ったりとブログをいろいろ試す旅を続けていました。

そんなとき、自分が連載を担当していた「イニシャルB」のコーナーでMovable Typeを知り、さらにインターネットマガジンがCMS特集を掲載したことでブログシステムとしてのMovable Typeに興味がわいたタイミングで、ニフティがMovable Typeベースのブログサービス「ココログ」を開始、@niftyの会員なら無料で利用できるとのことでさっそくブログを開設。当時はまだニュース記者がWebで個人の名前を出して活動するような風潮でもなかったので、会社の人は知っているけど特に名前は出さない匿名でブログを始めました。

そして翌年、忘れもしない2004年3月1日に開催されたのが、ココログでブログを書いていた木村剛氏が、読者と一緒にワールドカップを鑑賞するという謎のイベント「木村剛とブロガーのオフサイド取引」。取材という名目で参加したこのイベントで多くのブロガーやエンジニアと知り合い、今も続く人間関係が続いている恩義あるイベントであり、そしてこのイベントで出会ったのが、当時はSNSとして展開していたGREEでした。

当時のGREEは今のようなゲームプラットフォームではなく、友達とつながって友達の紹介文を書く、という仕組みで、名刺交換のような感覚で知り合った人とつながるツールとして愛用されてました。今はもう昔の思い出だけど、同じ時期に立ち上がったmixiよりも当時はGREEのほうが勢いがあったと思う。

その後GREEが10万人を突破し、それを記念したGREE Night 2.0なんてイベントも開催されたあたりが、SNSとしてのGREEが一番勢いがあったときかもしれない。その後はmixiが徐々に勢いを付け始め、あっという間に国内最大のSNSとして大成長、上場まで成し遂げてしまいました。

GREEとmixiの一番の違いは日記があったことで、GREEはお互いでプロフィール書いたらその後のやりとりが特に発生しないけど、mixiは日記があったことでその後も見に行くモチベーションがあった。かくいう自分は最初GREEを愛用していたのでmixiを使い始めたのは少し遅く、「電車男の続きが読める」という噂を聞いて招待してもらったものの、あの純愛だった電車男が一転してピンクなストーリーになっていて読むんじゃなかったという気になったんですが、あれはそもそも本当に続きだったのか誰かが書いた偽物だったのかどうなんだろうな……。

ただ、個人的にGREEの誕生日寄せ書き機能は結構好きで、誕生日数日前くらいに本人以外の友達だけに誕生日がお知らせされ、事前に書き込んだお祝いメッセージを当日まとめてみられるという仕組みがとてもよかった。Facebookの誕生日は該当日にやたら通知だらけになるし、「おめでとう」という淡泊なメッセージになりがちだったりしてここ最近はずっとオフにしているんだけど、GREEの寄せ書きみたいな仕組みだったら誕生日のメッセージもアリだなと思います。

そんなSNS元年とも言うべき2004年に出会ったもう一つの貴重な出会いが忘年会議。元々は2003年に開催された忘年会議が、翌年には無敵会議という名前で毎年開催され、その中でYahoo!とコラボした検索会議に取材で参加したらイベントが大変面白く、その後は定期的に個人で参加することに。主宰の1人だった田口さんもその後の飲み会などで知り合いになり、いろいろな人を紹介してもらったり飲みに連れて行ってもらったり、この頃の人間関係を築くのに本当にお世話になりました。

アゲイン2.0

2004年は本当に自分の中にいろいろと影響を与えるイベントが大きくて、ブログカスタマイズの解説書である「Blog Hacks」の発売記念イベント「Blog Hacks Conference」はいろいろと衝撃を受けました。前のほうで「Webニュースは速報性で勝る」なんて思い込み、Webの世界では最先端の情報を手に入れられているとうぬぼれていたんだけど、このイベントで出てくる用語や新しい技術は全然知らないことばかり。だけどAPIやHackによって新しいサービスを個人の手でも作り出せるんだ、ということにすごく感動して、このあたりからブログやWeb 2.0の世界へズブズブと足を踏み込むことになります。

Web 2.0系を片っ端から取材していくことで開発者の知り合いも増え、飲み会だったり開発合宿だったりにおじゃましたりするときに雑談的に出した自分の意見が「それいいね」と評価してもらったり、時にはそのアイディアがサービスに反映されたりサービスの名称になったりとかいう経験もいくつかし始めて、「ああこういうサービス作る側に行きたかったんだよなほんとは」という思いがムクムクと湧き上がりはじめたのがちょうどこの頃。

そしてブログの登場によってメディアの立場も大きく変わるなと思ったのもこの頃でした。その一番最初のきっかけがSkypeが開催したメディア向け発表会。ゲスト登壇したのがSkypeに詳しいブロガーで、当時「going my way」を運営していたkengoさん。Skypeの情報はWebメディアよりも早く、正直情報ソースとしても頼っていて愛読していたブログではあったんだけど、もうそういうブログがメディアに対して情報を発信する立ち位置として登壇するんだな、というの衝撃でした。

そんなこんなでいろいろとブログコミュニティも顔を出す中、せっかくだから自分のブログを名刺代わりにちゃんと伝えたいなと言う思いが強まったことで、匿名ブログはいったん更新を止めて、Webニュース記者という肩書きこそ書かないけど、友達やコミュニティであった人には紹介できるこのブログを立ち上げたのが2006年のこと。更新頻度こそ当時ほどではないにせよ、このブログを15年以上も続けることになるとは当時思いもしませんでした。

当時はアメブロのPVがとんでもない数字が出るのを「界王拳」と揶揄したらぼちぼちバズってしまい、広告代理店の人に「よくやった」と誉められたり、インプレスの中の人ということを知らない競合媒体からブログ記事をリンクされて編集部の爆笑をかっさらったり、いろんなことがありました。

開発者が泊まり込みでサービスを開発する開発合宿に憧れて、ブログ合宿という企画を始めたのもこの時でした。ただ泊まり込みでブログをひたすら更新するというだけだったけど、当時ブログにどっぷりハマっていた自分としては猛烈に楽しかった。そろそろまたブログ書くだけの旅行とかしてみたいな。

2回目のブログ合宿では、参加者の1人だった田口さんの発案により、まだ日本でもあまり使っている人が少なかったTwitterをみんなで使ってみることに。田口さん曰く「使って見てもおもしろさがよくわからないからみんなで使って見よう」というのがきっかけだったけど、目の前にいるメンバーで使い始めたらこれが結構楽しくて、この頃からエンジニアやブロガー界隈でTwitterが流行り始めました。とはいえ当時はそもそもクライアントがなくてGoogle TalkとかIRCをクライアントソフトにしてたり、アンダースコアを入れないと日本語が通らなかったりとバグなのか仕様なのか分からない状況をみんなで楽しんでいる感じで、まさに「あの頃はよかったなー」と思ってしまうインターネット老人会エピソードですね。

同じく田口さんに、「ケータイ会議」を始めとするメーカーとコラボした各種会議イベントにお誘いいただいたのもブログあってこそ。当時はWebニュースの中の人として参加していいのかどうか凄い悩んだのだけれど、施策そのものの魅力にあがなえず、「Webニュースの人しか知り得ない情報はNG、オープンな情報だけでブロガーとして書く」という自分の中のルールで参戦したけれど、おかげで当時としては非常に画期的なユーザーとメーカーによるマーケティング施策に参加できたし、その体験は今にも生きています。

こうしてブログを更新していくうちに、情報は受け取るだけではなく自分で取りに行かないと価値のある情報が手に入れられないということを痛感し、その場所としてブログがある程度認知されてきたこと、そしていろんなサービス開発者と交流するうちに自分も作る側に行きたくなったということで転職を決意したのでした。

ビバ☆ヒウィッヒヒー

前回の転職時は次を決めてからの転職だったのですが、SNSやブログが普及しつつあった当時は、SNSで会社を辞めることだけを発表して次の行き先を探したり、転職を発表したら「転職するならうちに来て欲しかった!」なんてことを言っている人を見かけたりで、確かに一度FA宣言したほうが声かけてもらえる可能性があるのかもという贅沢な期待と、だめでもフリーランスのライターとして食っていこうという覚悟のもと、次を決めずに会社を辞めるとSNSで宣言。ありがたくもいくつかの会社から声をかけていただきました。

次の仕事では何かを作る側に回りたいというのが転職の一番の理由で、その点ではその後めちゃくちゃ大きくなるWebサービス系のスタートアップに声かけてもらったりもしてたんだけど、当時は文章が書けること以外に自分の自信がなく、ブログ経験あるから何らかアウトプットは出せるだろうという若干消極的な理由で、ブログマーケティングを手がけていたアジャイルメディア・ネットワーク、略してAMNに転職。あのとき別の会社に入っていたら人生もガラッと変わってたんだろうなーとかたまに思います。

転職した直後の2009年のインターネットは、Twitterがデジタルガレージと共に日本語版サービスを開始したばかりで、ユーザーは着実に増えていて身の回りの友達はほぼ使っているけど、芸能人がこぞって使うような今ほどの存在感はまだない頃。そしてFacebookは日本では全然普及しておらず、ユーザーが自由に意見を発信できる場所としてはまだまだブログの存在が大きい時代でした。AMNでは企業の製品やサービスを消費者に体験してもらうブロガーイベントを展開していて、そのイベントの司会やったりたまにはブロガーとして参加したり、ブログやってたからこその仕事をしていました。

一方でWebサービスを何か作りたいという気持ちもあったので、ブロガー向けのプロフィールサービスやコミュニティサービスの企画や開発も担当。ただ、当時はやはり自分の実力不足もあり、そしてマーケティング会社でサービスを展開することの難しさもあったりで、正直なところ思ったようなサービス提供ができず自分に悩みを感じていた頃でもありました。

また、この頃は毎年4月1日のエイプリルフールに企業が本気を出すのが流行にもなっていて、AMNでも何かやりたいという当時の社長の意向に対して、インプレスに居た頃からエイプリルフールの難しさや大変さを痛感していた自分としては、エイプリルフールに対してもう少しメタに取り組めないかなということから、エイプリルフールのWebサイトがどれだけTwitterで投稿されているかをカウントして表彰する「エイプリルフールアワード」という企画を開催。その企画ついでに1位となった憧れの円谷プロへのインタビューを古巣のインプレスにねじ込むという力業をやったりもしてました。

イベントものとしては、アメリカのTechCrunchぽいベンチャーを応援するイベントを開催したいというこれまた社長の意向を受けて、「WISH」というプレゼンイベントを実施。今で言うスタートアップ的な立ち上げたばかりの企業や個人開発者にプレゼンしてもらい、それを表彰しつつTwitterで実況したりUstreamで配信したりと、ネットでも拡散するみたいなイベントの運営をしてました。Zaimや宅麺など今も活躍するサービスはもちろん、その後カバーを立ち上げる谷郷さんやユーザーローカルのいとまささん、ツイキャスの赤松さん、自分が転職することになるCerevoの岩佐さんとか、今も元気に活躍する人たちにプレゼンしてもらって、大変だったけどとても楽しい経験になりました。

そうしているうちにTwitterがどんどん普及し始め、AMNとしてのビジネスもブログからSNSへと少しずつ軸足が移り始めます。当時のCTOがTwitterの投稿をまとめて解析するのが大得意で、それを使ってマクドナルドの投稿キャンペーンやって話題になったり、少しずつCGMとしての場がTwitterに移っていく流れを感じたのがこの頃。前述のエイプリルフールアワードもこの仕組みを流用して作ったのでした。そんなCTOもいまではカバーのCTOとして活躍してますがお元気ですか。

Twitterが着実に勢いを見せる一方、今までのTwitterが恋しい一部の界隈が、ほとんど日本では使われていなかったFacebookをみんなで活用しようという動きがあったのもこの頃。2010年末にそういうメンバーで開催したFacebook忘年会は100人近く参加する大規模イベントとなり、国内でFacebook利用が進むのに多少の効果はあったのではないかと思います。

なお、当時のFacebookは完全実名主義で実名ではないアカウントは凍結するという方針であり、おいおい芸能人は本名で登録しろってのかよミムラの本名は非公開だぞと憤っていた私はひたすらハンドルネームを貫いた結果、見事にFacebookのアカウントを止められて一度はFacebookから撤退したのも今となっては良い思い出です。しかしあの頃「実名なら信頼できる」とか言ってた人は、実名でもネットで困った発言する人ばかりになった現在をどう思っているのだろうか。

そしてその後、2011年に発生した東日本大震災とその影響でいろいろと自分の人生を見つめ直し、一度フリーランスとして働いてみることを決意したタイミングでCerevoにお声がけいただいてハードウェアの世界に入り、そしていままたフリーランスに舞い戻っていろんな仕事をしつつ、インプレス時代の同僚が社長を務めるテクノエッジの運営に入ってみたりと人生いろいろですね。

2011年以降はインターネット老人会というには新しすぎる時期かなと思うので長きにわたった一人語りはこのあたりにして、10年前に作って放置したままのブログ年表も老人会のネタがてら置いておきます。

ブログの歴史を振り返る「ブログ年表」アルファ版公開します – カイ士伝
https://bloggingfrom.tv/wp/2013/08/28/11257


インターネット老人会に寄せてネット半生を振り返る” への1件のフィードバック

  1. ドラマ「ブラッシュアップライフ」を見てるタイミングで読んだので、カイさん人生2週目かなとか思いつつ読んでました。

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