朝早く目が覚めて時間があったので勢いエントリしてみる。
「持ち駒あと○個です」とか
「もう持ち駒がありません」とかいうの。先輩がそう言っていたのかもしれない。
周りの友人たちがその言葉を使っているのかもしれない。
単に面白がって言ってるだけかもしれない。
でも、それはやめた方がいい。
言葉の持つ力を軽視しない方がいい。だから君は内定がもらえないんだ – 頭ん中
http://www.msng.info/archives/2009/05/thats_why_you_dont_get_hired.php
趣旨には同感。ただ一方でいつぞやの不況ど真ん中で就職活動していた自分にとっては「駒」発言の気持ちもわからないでもない。
タイムマシンで人生をやり直せるなら確実に就職活動時代に戻りたい、そう思うほど自分の就職活動に対しては反省がある。正直就職活動をなめてた。それなりの大学入っていればなんとかなると思ってたし、志望動機も薄っぺらかった。面接でも自分を最大限アピールすることができなかった。「自分のいいところなんて面接官が引き出してくれるさ」と思ってた。人生最大の分岐点である就職活動においてあまりにも考えが甘かったというのは未だに心残りで後悔する思い出です。
一方で、そうやって面接に落ちまくり、応募していた企業から断られ続けるとどんどん心がすさんでくる。よっぽど就職活動が得意な人でない限り、面接に落ちたら精神的ショックも大きいはず。
しかしそれは人格否定ではなくて、単に面接官とはウマが合わなかったというだけのことも多々ある。それはもう運命や確率論みたいなもので、面接に落ちることすべてが自分の能力否定ではないんだけど、そうはいっても精神的にダメージが多いのは避けられない。
そういうときに「その会社とは縁がなかったよね」とすっぱり割り切って次に全力を注ぐという為にも、「駒」という割り切りは結構重要だと未だに思う。すべての会社に全力で気持ちを込めていたら、落ちてしまったときのダメージも激しいから。大学受験なら一定の点数を出せる能力があればほぼ必ず受かるんだけど、就職活動においてはそんな絶対的客観的な能力なんて存在しない。どんなにできる人でも面接のたった一言で運命が分かれてしまうというのが現実。だったら受ける立場の心構えとしても、努力だけでは通用しない、運の要素も強いゲーム感覚をどこか心に据えておくというのも決して悪い側面だけではないと思うのでありました。
もう1つ、逆の視点からすると、何十人何百人の学生たちを面接する面接官こそ、学生たちを将来の「駒」として見ていないだろうか。会う人会う人に気持ちを込めて全身全霊でぶつかっているのだろうか。もちろんそういう心のこもった人もたくさんいるのだろうけれど、残念ながら全員が全員そんなにいい面接官ではないというのが現実。だとしたら受ける側の心の持ちようとしても、「こちらも選択肢の1つです」というつもりでなければ気持ちの上で負けてしまうし、言葉としては悪いけど「駒」というくらいの位置付けで考えられるほうが面接に対する心構えとしては結果として良いのではないかなと思いました。
勢いエントリつっこみどころ満載ですが、氷河期マックス時代に就職活動していた自分としては素直にそう思ってしまったので書き残しておきます。